プチコミュニティが抱える願いとして、世代を超えた価値があると信じているからこそその価値を次の世代に伝えたいのです。

日々変化していく世界は、過去に築いてきた価値を否定しているようです。生活のあらゆる古いものが新しいものに置き換えられていくことは当たり前のことに感じるようになりました。

古いものはすべて価値が劣っており、新しいものが必ず優秀で高い価値を実現しているという神話ができあがりつつあるように思えます。

しかし、どれだけ発展したとしても科学技術がすべてを把握したと考えることは誤りです。なぜなら、技術は人間が利用してはじめて価値を持ちます。ですから、科学技術が発展しても必要な知的資産はあるはずです。

技術を革新することで無条件に過去の蓄積を忘れてはダメなのです。一旦忘れてしまって途絶えてしまうと、同じものを再現することが難しい。そのためには、かつてと同じ時間的技術的コストが必要になるからです。

技術と同じように革新することができないものを、私たちは数多く知っています。世代を越えて受け継いできた伝統技術、生活など復権を叫ばれているものも出てきましたが、もっと身近なところにも多く残されています。

これらの資産を価値あるものとして、放棄しないことそのものに価値があるのではないでしょうか。私たちの周囲を見渡せば、過去に例を見ない問題を感じることが少なくありません。

それらのほとんどは生身の人間同士の関わりを前提にした知恵や流儀に問題が生じているためではないかと思えるのです。これらの事実を逐一報告することはできませんが、最近見聞したコミュニティに所属する若者の話を紹介します。

異性をハンティングするというゲームは、絵空事のように思っていましたが、相談者にとって深刻な現実でした。友人の多くがそのようなゲームに巻き込まれてしまったというのです。彼らはその後の関係を維持するという思いがまったくありません。

友人の数を尋ねた時、一人の青年が挙げた数字は私の想像を超えていました。彼はネットでやり取りしただけの人間を友人に数えていたのです。つまり友人の概念が私とかけ離れたもので、友人とはもはや困ったときに助け合うものではなくなっていたのです。

上の世代から見ればいびつに見える人間関係の原因をさまざまな学者が調査研究しています。結論は出ていません。しかし、反道徳的でもない、反社会的でもない彼らを放置することは、おそらく正義とは呼べないでしょう。

彼らが不要だと考えるモノでも後々必要になる可能性があるのも事実です。例えば、礼儀作法。これは人間同士の関わりを整理する技法でした。

関係を無視した敬語の乱用で人間関係が乱れるのは当然のことで、デジタル世代は上下関係どころか遠近すら意識できなくなっているのかもしれません。

便利な世界は不便をやり過ごす知恵を失いつつあります。火を起こすことができない人も増えています。しかし、私の父は週刊誌から1ページを引きちぎり、焚き火に火をつけていました。これも失われつつある技術の1つです。

このように身近な空間でも失われつつある知恵が数多くあるのではないでしょうか。それらのすべてに価値があると強制しないが、今は判断を保留して、ただ次世代に伝えたいものです。

世代を越えて価値を強制しないことが必要です。価値の強制は支配だからです。人間は本質的に支配の対象にはなりません。自由意志があるので支配できません。ですから価値の強制は関係を途絶えさせる結果を招きます。

それでも価値があることだと思うからこそ価値判断を保留してただ次世代に伝える行動が必要なのです。