Monthly archives: 7月 2016

プチコミュニティではリーダがルールブック。でも…

残念ですが、コミュニティを形成したり、運営する時にリーダとして関わり方を間違ってしまう人が少なくありません。その結果、コミュニティは動きを奪われて、寿命を終えることもあります。

コミュニティは一種のゲームだと考えることができます。コミュニティはどのようなゲームになるのでしょうか。どのようなゲームにせよ、ゲームを創ることがリーダシップの役割です。

もちろんゲームはルールに従って運営されます。特に日本文化を背景にした場合、ルールを明確にすれば、ゲームの進行は健全に行われることが期待できます。

ところが、リーダは特権階級だと考えるとコミュニティはゲームにならなくなってしまいます。リーダをその他のメンバーと区別し、経費を使いたいと考える人を見たことがあります。

リーダに特権を与えると、最初からコミュニティの参加者は不満を抱くでしょう。さらにゲームに参加するために時間を喜んで提供するとは考えられません。みんなが平等だという意識は、すべての日本人を支配していると考えるべきです。

そこでどうするかといえば、自分が同じ立場で振る舞えるルールを作ろうということに帰結します。そもそも自分が従うことをためらうルールを作らないことです。

リーダが自らルールを厳守することが原則です。ルールを守るリーダを見て、立ち上げメンバーが行動を決定するようになります。ルールを守ることもまたゲームの一環だからです。

するとルールを守っているコミュニティの人達を観察して、新しく参加する人が行動することが可能になります。このようにしてルールはコミュニティ全体を規範に従わせるのです。

逆にリーダが遅刻をすれば、コミュニティは遅刻を容認するルールになります。もちろん、リーダは別格だと誰も考えてくれません。正当だと思われる理由があれば、誰でも遅刻が容認されると考えるからです。

最初は、誰が考えても仕方がないという理由かもしれませんが、時間が過ぎて回数を重ねると段々と意味のない理由で遅刻するようになるはずです。

コミュニティはリーダが直接支配するのではありません。あれこれの判断をいちいちリーダが支持したり、許可を与えたりするのではありません。リーダは厳しいルールでも作れるが、支配するのはルールなのです。

そのためには最初からコミュニティを自分と同一視しないことが大切です。自分が作ったコミュニティですが、コミュニティは自分から独立した別の存在なのです。

なによりも会計をできるだけ早い時期に独立させることが、コツだと考えています。会計はもめ事の原因になりやすく、逆に明確にしておくと多くの人が納得してくれるからです。

社会人も学生もそれぞれに所属する社会のルールを持っていますから、コミュニティが何もルールを決めないと別の問題を生じます。それぞれが自分のルールを正当だと考えて混乱を招きます。

しかし、問題になる事態が起こらなければ、ルールは表面化しません。ですから、慌ててルールを作るのではなく、それ以外のルールは最低限にすれば息が詰まらないコミュニティを作れます。

合意制を採用するメリットを知っていれば、ルールの統一もそれほど負担にならないはずです。合意とは議論による決定に焦点を当てずに、全員の意見を参照して、リーダが全員の合意を得られる提案をすることを意味します。

コミュニティ全員の合意を得ることで、コミュニティは独立することになります。全員がコミュニティの意思決定者になるからです。そしてコミュニティの合意制は日本の古来からの伝統なのです。

リーダシップはこれでOK!この方法で自然とリーダになれる

コミュニティがいつも上首尾に運営できるはずはありません。ほとんどの場合、人が抜けたりしていくと徐々に解散に向かう宿命にあります。ですから、少しでもコミュニティの寿命を永らえるための方策が必要になります。

それらの方策の中でもっとも基本的で大切なお約束が時間厳守というあまりにも当たり前なこと。当たり前なのですが、時間に遅れる人に対処することは極めて難しいと言わざるをえません。

時間を守らないからといって、懲罰を加えると簡単にコミュニティの崩壊を招きます。些細なルール違反によってほころびが生じて、あっという間に拡大するのです。

しかし、時間を守らないという行動は実に些細な失敗に過ぎません。理由を問えば、あらゆる理由を考えだすでしょう。懲罰対象とすることは非常に困難です。

もちろん、身体的な懲罰を加えるなど、とんでもない決断です。このような短絡をしてしまうと即座にリーダ失格という烙印を押されてしまうのみならず、社会的に抹殺されかねません。

そこでリーダとしてのたしなみとして、心理的な罰則と報酬を知っておくことをお勧めします。罰則は、「無視」することにつきます。その後の一定時間の無視は強烈な心理的圧迫として感じられることになるのです。

逆に報酬は、他人の目の前での「賞賛」が相当します。極めて限定的に賞賛します。良いタイミングで挨拶を交わせたという程度でもしっかりと、こまめに報酬を与えることで効果は増大します。

時間の問題を含めて強制的なリーダは相手を心理的に遠ざけてしまうので注意が必要です。つまり強制する行動・言動はコミュニティの運営に用いることができません。

強圧的に迫れば、一時的に行動を変更するかもしれませんが、自発的な行動になるまでにかなりの時間を必要とするでしょう。その度に強制的に指示することになり、行動が変化する前にリーダへの態度や感覚が変化してしまいます。

指示で動いている限りは力を発揮しないのが人間なのです。ですから、本人の意思でできる行動を暗示することが有効です。〜しろという形で指示するより、〜すれば…が助かる、といったパターンを利用しましょう。

連絡係とリーダーシップとの関係について無関心でいては、大きな問題を抱え込むことになります。連絡係の担当する仕事が人と人とのネットワークを支配するからです。

ネットワークを支配すればグループ全体を支配できることになります。つまり連絡係が造反すれば、リーダはすべての力を失う結果を招くでしょう。

一般的にリーダの役割はグループの判断を代表することですが、連絡係がいなければ、コミュニケーションがストップします。コミュニケーションがストップしている状態では、リーダの判断はすべて独断になってしまいます。

リーダ自らが連絡係をすることで情報を整理できるメリットが非常に助けになるでしょう。グループの一人一人から消息を直接確認することで、親密度が増加します。

連絡係は代理不可能なのでリーダの地位が安定するというメリットも重要です。連絡係は個人情報を扱うことになり、第三者を含めて簡単に知らせることができません。

連絡係が 一人一人の状況を把握することが、リーダへの依存度を著しく高めることにつながります。そのために一番効果的な方法は、話を注意深く聞くことです。

人は誰でも、話を聞いてもらいたいと願っています。渇望しているのです。プチコミュニティはそのような人の欲求を取り扱うことが中心になりますので、リーダが率先しましょう。

これは事情通になる方法です。グループの一人一人の事情をよく知っているという特性はリーダとして認められることに直結します。

知ってますか?本当の目的を隠せばコミュニティは動き出す

目的を共有している仲間はフォーカスをずらして安定した信頼関係を構築し集団の柔軟性を向上させます。野球選手たちが専門の業務として野球での役割をこなすだけでは、試合に勝てないことをよく知っています。

チームなどの人間集団に所属している人たちが一人一人の役割を十分にこなすだけでは全体としてパフォーマンスを100%以上発揮することはできません。

所属する人たちがお互いに意思疎通できていることが、必要に応じた活動を可能にすることが知られています。そのためチームの人達は試合後の余暇時間も共有することが当たり前になっているのです。

ほとんどの場合、コミュニケーションがコミュニティのパフォーマンス向上のカギなのですが、コミュニケーション実践を目的に集まれないというジレンマがあります。

コミュニケーションは目的ではなく道具なのです。道具であるというこころは、実は使い方が簡単であるという意味合いが含まれています。

ところがコミュニケーションについて、方法のマニュアルはありませんし、あったとしてもとても陳腐なものになってしまいます。原因は応用する運用にあるからであって、応用方法や運用方法を網羅できないからなのです。

その上、コミュニケーションの重要性があまり認識されていないため、自分のコミュニケーション能力に問題を感じていません。その結果なのか、若者も年配者も、自分はできていると思っているわけですが、実は採点をしていないだけだったりするわけです。

このような理由でコミュニティはコミュニケーションそのものを目的にできないのです。では、コミュニティはどのようにコミュニケーションと取り組むのかといえば、コミュニティの目的はコミュニケーションの安定する場を作り出し、提供することです。

コミュニティ本当の目的は人間同士の感情交流にあります。感情はいちいち言葉に表さずに表現され、その場にいる人達と共有されるはずです。共有によって結びついている関係がコミュニティの本質であり、感情が結びつけるコミュニティを作るべきなのです。

コミュニティは人格理解が目標であり、心情交流コミュニケーションによってもたらされます。コミュニティにおいて人格とは、単なる人権的な概念ではありません。感情や心情を中心にした信頼にたる人となりを意味します。

他人の価値観や考え方を理解することが自分の問題解決に直結するからにほかなりません。他人の価値観や考え方は自分のビジネスや進路を客観的に判断するための指針になります。自分の問題を解決する最大の方法は問題の客観視だからです。

ビジネスといえば会社では昔、報連相が会社のコミュニケーションだなどともてはやされました。しかし、そのような会社のコミュニケーションは極めて強く制限を受けており、上意下達のコミュニケーションになっています。つまりいつも上司から部下へと意図が流れる一方的なものになっています。

上司の意図とは一定の判断になりますが、一方的な意図判断の伝達はコミュニケーションとしてあまりに不完全であり、そのため会社はコミュニティとして成立できなくなります。

だからといって、定時後の飲みニケーションなどと申し合わせて場を変えても会社コミュニケーションの構造をそのまま持ち込んでしまう以外に、コミュニケーションのパターンがありません。

コミュニケーションの核は報連相ではなく、発信・応答です。誰かが発信したことに対して、他の誰かが応答するときコミュニケーションが生じてコミュニティは動き出すのです。

コミュニティは生活空間での人間性を回復し育てるツールだ

現在の日本でコミュニティが意味するものは、どこかで会合を持つような集団ではなく、インターネットなどで繋がる一定のグループのことになっているようです。

インターネットで形成されるコミュニティを中心にして展開される会合を「オフ会」などと名づけて、ネット社会の外へと拡大しつつあり、もはや歯止めもないような状態になってきています。

しかし、このようなネット中心のコミュニティには問題があり、社会的にも注目を集めつつあるのです。それは犯罪の温床になりかねないという危険性です。そこにはイジメの問題も深く関わっているようであり、一概に扱うことの難しさが露呈しています。

原則的にインターネットでは個人を特定することはできません。これが様々な問題を引き起こす可能性を高めています。つまり「匿名性」がインターネットの本質であって、匿名性が個人を覆い隠してしまいます。

結局、いつも隠れた場所から発言できることは無条件に有利な立場を提供しますから、自分は弱い立場に置かれてしまうことになります。ネットでは信頼もバーチャルになってしまうのです。

生身のコミュニケーションでは言葉だけではなく、相手の表情、雰囲気も利用して、私たちは理解します。ネットではこれらの情報が提供しなくても成立します。

インターネットを前提にして育った世代であっても、インターネットが提供している世界はバーチャル(仮想)であり、現実世界ではないことを理解しているはずです。

しかし、現実世界で生身のコミュニケーション能力を十分に発達させる機会が少なかったためか、一面ではどちらにも十分に帰属できない、全面的に信頼することができていない人も少なくないように見受けられます。相手がわからないという不安な緊張状態では相手を信頼する能力が育つことがありません。

それに対してプチコミュニティは対面コミュニティであり、コミュニケーションサイズが十分小さいという条件がコミュニケーション能力を高めることに貢献するはずです。

それほど多くない人たちとの信頼関係を維持する経験が、新たな局面で、新たな人間関係を信頼して形成する能力を育てることに役立ちます。

ここで説明した内容は私が現在関わっている若者たちにもそのまま当てはまります。彼らは決して学習能力が低くありません。むしろ高度に教育された結果です。

共通して観察される様子は彼らが大人社会に対する失望を抱え込んでいる行動でしょう。ただ、失望してはいますが、なんとか解決する方法を模索する気持ちが見え隠れするのです。

そのような心情に支配されている彼らが持っている、信頼できる人たちの関わりが欲しいという欲求は暴走するほどの力を持っています。これは時々に扱いづらいと思われる行動になったり、時には犯罪行為として問題になったりするのではないでしょうか。

人との信頼関係を作るためには、まず自分が相手を信頼して、その信頼を表現することから始まりますが、彼らはその手順を学んでいないのです。

さらに、よく知らない人を信頼するにはリスクを抱える勇気が必要です。だからこそ、ここに経験が豊かな大人の必要性があります。

親密な関わりを構築する手順を提示すれば、彼らは比較的従順に学習を進める傾向があり、しばらくすると自発的な行動を始められるようだとわかりました。

家族以外の親密な関係にある大人がコミュニティに必要です。上手くできれば、コミュニティは社会的不満に応える場所になる可能性を持っているといえるでしょう。

ニーズを掴め!必要な共同体は世につれ時代とともに変化する

必要な共同体、コミュニティてでも、どのやって作ればいいのでしょうか?そんなに簡単なものではないし、自分一人では作れないかもしれない。こんな不安は当然です。

自分が欲しい、あったら良いなと思うようなコミュニティは、ほとんどの場合は何かの必要に対応するものではないでしょうか。ということは、そのコミュニティは自分だけではなくきっと、他の誰かも欲しいと思っているものなのです。

つまり自分が欲しいコミュニティを作ればよいということが原則なのです。自分が欲しいと思うのであれば、必ず他にも欲しいと思っている人があるものです。

それは何故でしょうか?それは問題に対する解答(コミュニティ)は1つではない、ことが大きく関係しています。学校で勉強している教科がいくつも答えを持っていると困りますが、実生活は違います。

問題解決の方法はいくつも存在しています。隣同志で違う英会話教室だって成立してしまいます。だって主任の先生がまったく違うからというのだって、生徒さんが仲良しだってそれぞれに理由は考えられます。

同じ問題を扱うコミュニティはいくつあってもよいのです。コミュニティが大きく育つと中でのコミュニケーションが希薄になってしまうことが理由になることもあるからです。

コミュニティがどんな問題を扱えばいいかということもそれほど難しいことではありません。状況の変化がコミュニティのニーズを生み出すのです。

代表的なのは政策に対する対策は常識的に存在します。対策をコミュニティで扱うなら、政策が変化する度にコミュニティの主題は変化できます。

状況の変化は、今までとは違う知恵・スキルを要求するからです。知恵やスキルはコミュニティが扱うのに適したテーマになります。それは知恵やスキルが必要になってから身に付けることが難しく、ましてや未来の変化を予測してすべてに対策することは不可能だからです。

流動的な変化を続ける社会は生活の不安をかきたてますが、その不安も周囲に仲間を求める動機になります。つまり社会状況の変化はコミュニティのチャンスになっていると考えられるのです。

社会がくれるチャンスを活かすのはもちろん、小さいコミュニティが持つメリットがあるからです。集団が大きくなると、それがコミュニティのように仲良し集団でも全体の意思決定が非常に困難になります。

結局のところ小さいコミュニティは合意の形成が比較的簡単なのです。場合によってはコミュニティのリーダの独断さえ許されます。理由は一人一人の利益が相反する事態が起こりにくいからです。

準備の規模が小さいことも大きなメリットになります。イベントを企画する規模はコミュニティの大きさに比例するものです。いくら頑張っても小さいコミュニティが大きなイベントを企画することは難しい仕事になります。

しかし、小さいイベントであれば、極めて少ない準備でこなすことができるでしょう。小さいコミュニティは小さいイベント、小さい運営で活動することでより多く、大きな利益を獲得することが可能になります。

そのために大切な要素は軽快に対応できるコミュニティの機動性です。全員が軽快に動きまわる資質を持つ必要などは必要ないのですが、コミュニティとして活動力をあげておくべきでしょう。

そしてもう一つのメリットが備わります。小さいコミュニティは時代の必要がはっきりしてから対応できるというメリットが生じます。このことによって事前の投資やリスクが回避できるのです。

本当?制度が提供しているコミュニティは使いものにならない

通常、地域コミュニティがコミュニティの代表格です。地域コミュニティは役所などの行政機関が公式に管理している場合が多いようです。でもすべてを行政に任せてしまうことはできません。

時代の変化は行政の対応よりずいぶんと速いのです。時代が必要とすること、対応しなければならない課題は変化が速く、しかも継続しながら変化します。

日本の行政制度には住民の要請に応じるために苦労しているのですが、それでも行政の制限が重くのしかかっているかのようです。その制限は悪評高い年度ごとの予算制度だといえます。

前もって、行政機関は予算を計上しなくてはなりません。現在の必要に応じるために来年度以降の予算に組み込まなくてはならないのです。従って対応できるのは来年以降になります。

住民の課題は周辺地域を巻き込んで、同様の問題として表れることが多いのですが、行政は地域単位で独立していることも特徴でしょう。行政は制度ですから地域コミュニティの境界と完全に一致するわけでありません。

あくまでも行政としては必要を地域ごとに判断する必要があるのです。結果として、隣接地域であっても行政区が異なっていれば、協同したり、参考にしたりという判断は上手く機能しないことになります。

つまりコミュニティを地域行政に任せていては生活レベルの細かな必要に対応できないことになるのです。

不特定多数の集団の最大公約数的な共通目的を設定すると誰も責任を持てないことは当たり前なことかもしれません。何かの目的を共有していない集団ですから、その集団の人たちの目的はてんでばらばらなものになってしまいます。

それでも目的を設けなければ、集団は行動できません。しかし、設定された目的は誰か特定の人の利益ではないという無理な状況を作ってしまうことになります。

そのような集団では誰もが自分の利益に関わりないので責任を持たないという判断をします。責任者は必ず他の誰かがやってくれるはずだと考えることは人間の本性に関わる原則の1つです。

そもそも共通目的を達成するために貢献してもメリットがないことは予測することができます。誰かの利益にもならないことを一体誰が喜んでくれるでしょうか。利益を受けることは、集団に所属することの権利に過ぎないはずだからです。

結果として、そのような集団では誰も責任を取らない結果を招きます。誰でも自分の得にならず、誰にも感謝されない仕事はしてくれませんから。

行政機関の場合を考えれば平等公平に利益を還元すると誰の得にもならなくなることが理解できるはずです。

行政は平等がなにより大切な原則です。法の下の平等に基いて、住民に対して平等のサービスを提供することが行政機関の使命だからです。

結果として最大の受益者を排除することが正義になります。これはしかし行政機関の役割ではなく、住民が担うはずです。隣近所の誰かが自分より優遇されていれば黙っている人はいないはずです。

地域住民に平等に還元すると分配は少なくなることは仕方がありませんが、残念です。分配されるサービスは極端に少なくなり、おそらく誰の必要も満たせない程度になるはずです。

そのような状態では誰一人参加意識を持たず受益者になろうとすることは必然でしょう。参加者であれば集団に対して貢献することで評価を受けることになりますが、評価を与えられないことは明らかだからです。

行政機関が提供するコミュニティは誰の得にもならないことはこれで明らかでしょう。他人のコミュニティや与えられるだけのコミュニティに大きな利益は期待できないのです。

失くなってしまっても?世代を越えて伝えるフレームになる

プチコミュニティが抱える願いとして、世代を超えた価値があると信じているからこそその価値を次の世代に伝えたいのです。

日々変化していく世界は、過去に築いてきた価値を否定しているようです。生活のあらゆる古いものが新しいものに置き換えられていくことは当たり前のことに感じるようになりました。

古いものはすべて価値が劣っており、新しいものが必ず優秀で高い価値を実現しているという神話ができあがりつつあるように思えます。

しかし、どれだけ発展したとしても科学技術がすべてを把握したと考えることは誤りです。なぜなら、技術は人間が利用してはじめて価値を持ちます。ですから、科学技術が発展しても必要な知的資産はあるはずです。

技術を革新することで無条件に過去の蓄積を忘れてはダメなのです。一旦忘れてしまって途絶えてしまうと、同じものを再現することが難しい。そのためには、かつてと同じ時間的技術的コストが必要になるからです。

技術と同じように革新することができないものを、私たちは数多く知っています。世代を越えて受け継いできた伝統技術、生活など復権を叫ばれているものも出てきましたが、もっと身近なところにも多く残されています。

これらの資産を価値あるものとして、放棄しないことそのものに価値があるのではないでしょうか。私たちの周囲を見渡せば、過去に例を見ない問題を感じることが少なくありません。

それらのほとんどは生身の人間同士の関わりを前提にした知恵や流儀に問題が生じているためではないかと思えるのです。これらの事実を逐一報告することはできませんが、最近見聞したコミュニティに所属する若者の話を紹介します。

異性をハンティングするというゲームは、絵空事のように思っていましたが、相談者にとって深刻な現実でした。友人の多くがそのようなゲームに巻き込まれてしまったというのです。彼らはその後の関係を維持するという思いがまったくありません。

友人の数を尋ねた時、一人の青年が挙げた数字は私の想像を超えていました。彼はネットでやり取りしただけの人間を友人に数えていたのです。つまり友人の概念が私とかけ離れたもので、友人とはもはや困ったときに助け合うものではなくなっていたのです。

上の世代から見ればいびつに見える人間関係の原因をさまざまな学者が調査研究しています。結論は出ていません。しかし、反道徳的でもない、反社会的でもない彼らを放置することは、おそらく正義とは呼べないでしょう。

彼らが不要だと考えるモノでも後々必要になる可能性があるのも事実です。例えば、礼儀作法。これは人間同士の関わりを整理する技法でした。

関係を無視した敬語の乱用で人間関係が乱れるのは当然のことで、デジタル世代は上下関係どころか遠近すら意識できなくなっているのかもしれません。

便利な世界は不便をやり過ごす知恵を失いつつあります。火を起こすことができない人も増えています。しかし、私の父は週刊誌から1ページを引きちぎり、焚き火に火をつけていました。これも失われつつある技術の1つです。

このように身近な空間でも失われつつある知恵が数多くあるのではないでしょうか。それらのすべてに価値があると強制しないが、今は判断を保留して、ただ次世代に伝えたいものです。

世代を越えて価値を強制しないことが必要です。価値の強制は支配だからです。人間は本質的に支配の対象にはなりません。自由意志があるので支配できません。ですから価値の強制は関係を途絶えさせる結果を招きます。

それでも価値があることだと思うからこそ価値判断を保留してただ次世代に伝える行動が必要なのです。

人間同士の関わり支える屋台骨を作る!人間らしく生きる要件

人間同士が関わる、人間として誰かと関わりを持つことは簡単なようで以外な難しさを持っています。一人の人としてコミュニティの中で活躍しようと考えると、この難しさに直面することになります。

人間として誰かと関わりを持つときの難しさとは、実は「孤独」と深く関わっています。経験しなければ想像が及びませんが、先が見えない孤独は恐ろしく、人間同士の関わりを破壊します。

人は孤独になると自殺しかねません。アメリカのアンケート調査によれば、人が、不幸や不遇を感じる要件は「空腹」「寒さ」そして「孤独」の3つです。この結果は日本人でもおそらく同様でしょう。

しかし、空腹や寒さが問題になることは、正常な社会生活を営んでいる人が現代日本で問題にすることはないでしょう。アメリカなどと比較すれば、日本の社会密度は緊密ですし、行政の対応がある程度は効果していると思われます。

消去法で残されるように、孤独が現代日本で人を不幸に追い込む大きな原因なのです。孤独は、行政で扱えませんが、人との関わりの問題ですから社会的であり、個人が引き受ける点では人間的です。

一時的に孤独に苦しめられることは誰しも経験するでしょう。それらの経験のほとんどは期間を予測することができたのでやりすごすことができました。しかし、いつまでなのかが予測できないと、人は絶望感を覚えるのです。

いつ過ぎ去るのかわからない孤独は大きなストレスです。このように大きなストレスにさらされ続けると脳細胞がダメージを受けてしまい致命傷になりかねません。

物理的に一人だという孤独だけではなく、集団の中にいても必要とされないなら孤独を感じます。状況次第で無意識に孤独に悩まされるケースもありえます。無意識に孤独を感じていると、意味なく攻撃的な行動をとってしまったりと防衛本能が強く出ます。

誰も敬意を抱いていない存在は孤独です。周囲からの敬意があれば自分の立場を確認し、役割を果たすことができるでしょう。敬意を感じることができないとき、孤独な状況に置かれます。

周囲に人が多くいても関心を払ってくれない孤独はさらに厳しい事態を生むでしょう。このような状況に置かれるともはや自分の尊厳を傷つけられていると感じるはずです。

このような厳しい状況は日常に潜んでいます。所属する集団が変化すると孤独になることに注意しておきましょう。日常の中で慣れ親しんだ集団であっても、所属関係が変化することで孤独な状況に追い込まれます。

人が敬意を払ってくれるのは、必要とされているからです。つまり必要とされることが人間らしく生きる要件なのです。誰かに必要とされていると表現してもらえることです。

プチコミュニティは量ではなく質に焦点を当てるべきです。コミュニティの質は敬意の表現が明確に交換されることで高められます。多くの人から敬意を表されることは魅力的ですが、周囲の人たちから日常的に敬意を表されることによって、自分を高めることができるのです。この場合、多くの人である必要はありません。

自分を必要とするコミュニティは敬意を払ってくれるのです。必要とされるような人間に成れという道徳話ではなく、自分を必要するコミュニティを自分で作り出すことがポイントです。

自分を必要とするコミュニティが自分のコミュニティです。だからこそ自分のためのプチコミュニティが必要だといえるでしょう。小さいコミュニティながらも、日常的に敬意を伴った感情の交流が保たれているなら、それは人間として生き返るような経験が可能だからです。

活躍する場はありますか?シェルターとしてのコミュニティ

現代に生きる私たちは、家庭で、友人関係で、会社で、社会的にコミュニケーションストレスにさらされています。私たちにシェルター(逃れる場所)はありません。

日常的に批判にさらされる状況がコミュニケーションストレスを社会的ストレスに拡大します。家庭で思うようなコミュニケーションができず不満を生じ、そのまま不満を引きずって会社の日常業務をします。そこでも同じように不満を積み上げています。

このような現象は、私たちが人格として尊敬された経験が不足しているからだ。こう言うと違和感があるでしょうか?しかし、尊敬されていると感じさせる敬意が、一回ごとのコミュニケーションで聞くという態度で表されます。

敬意を感じることは自分の存在意義を感じる大切な要素です。これがなければ、人間として生きる意味すら見失ってしまうでしょう。その結果として若くても認知症になる人が増えているという事態が統計に出てきているように思えます。

どうして敬意を表現して、人の話を聞くことができないのでしょうか。簡単です。人間は恐れや不安の中に置かれていると攻撃性を強めてしまいます。その結果、同意や共感するよりも相手を非難することを選択してしまうのです。

夕食のテーブルを家族と囲んで一日の経験を話しあう状況を考えてみてください。自分が行動した結果、うまく行かなった経験を話すと必ず、家族は行動の問題を指摘するか、性格を問題視するかですよね。

知性がある人はこのような家族の反応を正しく学びます。家族に個人的な考えや意見を話すと非難されるという予測を身につけるのです。

しかし、一歩身を引いて事態を考えなおすべきです。どうして家族は、友人は、あるいは同僚は意見を否定するのか。もちろん、否定から話を始めることが知的であるという学習をどこかでしているのです。その動機には下心があります。自分の意見を聞いて欲しいという衝動です。

相互に信頼関係を構築できる環境が必要です。信頼は相手がなんとかしてくれるという意味ではなく、相手は自分を非難しないという確信です。だれも非難されることを期待して、自分の話をしたくありませんよね。

実は、特に日本人の場合、好意を持たれることが信頼するための必須の要件になっています。好意を持たれていることを確信できれば人は自分を表現します。当然目的はさらなる好意の獲得です。

好意を獲得していれば、好意によって良い方に解釈してもらえることが期待できるからです。この直感は極めて正しいのです。正反対になるのが警察などの取り調べですから想像することができますよね。

好意を持ってもらえてなければ、信頼は獲得できません。そして好意を受けてることが大きなプレッシャーとして私たちにのしかかっています。そしてその目的を達成する方法は、相手に利益を供与すること、という考え方が根強いのです。

コミュニティでも役立つことで参加しようとする人びとがほとんどです。参加する人は自分の行動がコミュニティにとって有益であって自分の行動が効率的であることで評価されるのを知っています。

会社と同じように貢献度に対する報酬として関係が良好になり、信頼を獲得できるということがルールになっています。この考え方はソサエティに対する見方であって、コミュニティにはふさわしくありません。

ここからコミュニティに期待することが見えてきます。まず、コミュニティは人格を受け入れる容器であって欲しいということです。相手の意見を非難しないことを信頼できる関係を基礎にすることが必要です。これが実現できれば、コミュニティはシェルターとして機能し始めます。

本当の豊かさ!プチコミュニティは多様な生活の場を実現する

本当の豊かさとは少なくとも経済的に豊かであることだけではありませんよね。夢をかなえるというとき、単に財布を豊かにするのではなく、わたしたちは人生を豊かにしたいのです。

人生にはいろいろな要素があります。経済性はその一面に過ぎません。人間として生きていく人生は、状況によって役割が決められることが多く、状況毎に求められる条件が異なってきます。

家ではお父さんでも会社に行けば社員です。客先に出向けば営業担当でしょう。お母さんは家では主婦、学校に出かけてはPTA、近所の知り合いの間では奥さんでしょう。役割が時と場所で変化して、その度に豊かさの基準は変化します。

名誉や友情、なぐさめと敬意。人間としての豊かさはこれらのものをもたらします。逆にこれらの要素に豊かでなく、貧しく枯渇してくると生きていく動機が失われていくことになります。

名誉が大切でない人間関係に身を置くと、だんだんと気持ちがさもしくなります。友情が感じられないと孤独にさいなまれます。なぐさめがないなら、立ち直れません。敬意を感じられない人間関係を気持ちよく感じることはできないでしょう。

これらの要素は科学的に扱える定量的なものではないため、科学的なアプローチが困難です。そのために実証的な手法の研究は限られており、マニュアル化することができません。ほとんどの場合は一面的なノウハウになったり、倫理的な規範になったりしてしまうのです。

だからといって、山のように積み上がった種類の知識を学習したり、高度な技術を習得しなければならないとしたら、そもそも夢は遠のくばかりに感じられます。そのように感じるのは自然です。だからこそ、コミュニティは専門家に任せてしまう人が多いのです。

多くの人がコミュニティに失望し、諦めています。そしてさまざまな人間的な苦痛を甘受しています。周りにはそのような人の不平と不満が渦を巻いているように感じます。電車の中で、居酒屋で、あるいは公園でお互いに求め合っています。

それでもこれらの要素を充実してあらゆる面で豊かになるためには、そのための有効な方法が必要です。困難に立ち向かう勇気が必要でしょうか?不要です。無限の能力がないから?そんなもの誰も持っていません。

必要なものは自分のコミュニティです。自分のコミュニティがあれば、周りは自分の味方、必要に応じて支援してくれます。敬意をもったコミュニティにしたければ、そのように作れば良いのです。必要なものを供給できるコミュニティを育てれば、自分に恩恵を与えてくれるようになります。

そのコミュニティは、参加者のすべてに同じように機能するはずです。参加者全員に同じように機能するなら、コミュニティは自分で育ち始めて大きくなり始めます。だから最初から大きなコミュニティを目指す必要はありません。

最初は小さなコミュニティで始めましょう。時間と手間をかけて育てていくのです。さまざまなイベントを通じてコミュニティは成長します。現実の子供のように、成長の過程で多くの問題に直面して、コミュニティは問題解決能力を身に着けていきます。

大きなコミュニティではなく、自分のためのプチコミュニティは多様な生活の場を実現してくれるのです。