目的を共有している仲間はフォーカスをずらして安定した信頼関係を構築し集団の柔軟性を向上させます。野球選手たちが専門の業務として野球での役割をこなすだけでは、試合に勝てないことをよく知っています。

チームなどの人間集団に所属している人たちが一人一人の役割を十分にこなすだけでは全体としてパフォーマンスを100%以上発揮することはできません。

所属する人たちがお互いに意思疎通できていることが、必要に応じた活動を可能にすることが知られています。そのためチームの人達は試合後の余暇時間も共有することが当たり前になっているのです。

ほとんどの場合、コミュニケーションがコミュニティのパフォーマンス向上のカギなのですが、コミュニケーション実践を目的に集まれないというジレンマがあります。

コミュニケーションは目的ではなく道具なのです。道具であるというこころは、実は使い方が簡単であるという意味合いが含まれています。

ところがコミュニケーションについて、方法のマニュアルはありませんし、あったとしてもとても陳腐なものになってしまいます。原因は応用する運用にあるからであって、応用方法や運用方法を網羅できないからなのです。

その上、コミュニケーションの重要性があまり認識されていないため、自分のコミュニケーション能力に問題を感じていません。その結果なのか、若者も年配者も、自分はできていると思っているわけですが、実は採点をしていないだけだったりするわけです。

このような理由でコミュニティはコミュニケーションそのものを目的にできないのです。では、コミュニティはどのようにコミュニケーションと取り組むのかといえば、コミュニティの目的はコミュニケーションの安定する場を作り出し、提供することです。

コミュニティ本当の目的は人間同士の感情交流にあります。感情はいちいち言葉に表さずに表現され、その場にいる人達と共有されるはずです。共有によって結びついている関係がコミュニティの本質であり、感情が結びつけるコミュニティを作るべきなのです。

コミュニティは人格理解が目標であり、心情交流コミュニケーションによってもたらされます。コミュニティにおいて人格とは、単なる人権的な概念ではありません。感情や心情を中心にした信頼にたる人となりを意味します。

他人の価値観や考え方を理解することが自分の問題解決に直結するからにほかなりません。他人の価値観や考え方は自分のビジネスや進路を客観的に判断するための指針になります。自分の問題を解決する最大の方法は問題の客観視だからです。

ビジネスといえば会社では昔、報連相が会社のコミュニケーションだなどともてはやされました。しかし、そのような会社のコミュニケーションは極めて強く制限を受けており、上意下達のコミュニケーションになっています。つまりいつも上司から部下へと意図が流れる一方的なものになっています。

上司の意図とは一定の判断になりますが、一方的な意図判断の伝達はコミュニケーションとしてあまりに不完全であり、そのため会社はコミュニティとして成立できなくなります。

だからといって、定時後の飲みニケーションなどと申し合わせて場を変えても会社コミュニケーションの構造をそのまま持ち込んでしまう以外に、コミュニケーションのパターンがありません。

コミュニケーションの核は報連相ではなく、発信・応答です。誰かが発信したことに対して、他の誰かが応答するときコミュニケーションが生じてコミュニティは動き出すのです。