具体的に扱う課題とは別にコミュニティのテーマが必要だと申し上げてきましたが、コミュニティのテーマをどのように考えれば良いのかについて説明してきませんでした。

コミュニティのテーマは、これでなければならないという制限はありません。ですから自分のプチコミュニティを作ろうと決断したときに自分で用意すれば、それでよいのです。

それでもコミュニティが扱う当面の課題以外に、そのコミュニティを通じて何を伝えるかというテーマを理解しておくことで運営の方向がブレなくなります。

地域性を強く持つ問題や、時代性をあまり強く持つ必要性など、個別の問題ではなく、コミュニティを通じて社会に訴えるような大きい課題が良いでしょう。それは普遍しているため地域と時代を越えてコミュニティを拡大する可能性を持っているからです。

コミュニティは年齢層が異なる、世代が異なる、文化が異なる人たちが集まってくるほうが良いといわれます。この理念はコミュニティそのものを崩壊させるリスクを伴います。

考え方があまりに違うと、コミュニティを維持できなくなるからです。価値観がずれていると優先順位が噛み合わなくなります。優先順位がずれているといずれお互いに非難しあうような結末になりかねません。

それでも多様性の中で見えてくるものがあることは事実です。さまざまな違いと直面することから、自分の考え方、価値観、優先順位が相対化されることは大きな利益になります。

是非、異なるものを貫いて大切な心とは何かを探しましょう。すべての人が共通して持っている心と何でしょう。どんな心を共通して持っている価値があるでしょう。

このように心を捉えようとする試みは、コミュニティを介した人間同志の交流が人間を養い、癒やし、育てていくことを期待するからです。

この問題は人間とは何かという遠大なテーマを抱えています。遠大なテーマを扱うのに特別な資格は必要ありません。専門的な学習も不要です。偏差値も関係ないのです。

誰にも答えられないテーマです。そしてギリシア時代から世代を越えて問い続けられてきたテーマです。未だに明確な解答は得られていません。ですから、安直な解答は拒否されることになります。

それでも問い続ける価値があることです。一人で扱うには大きすぎるテーマかもしれません。しかし、コミュニティという人間の交流の中で何かの手がかりを得ることは十分にあり得ます。

それが人を癒やしたり、育つキッカケになったりすることを目撃する経験は刺激的なのです。そのような経験を積み上げることでコミュニティのテーマを仮設することができるようになっていきます。

人間に傷つけられた心は、人間にしか癒せないといいます。でも、イルカセラピーとか、ドッグセラピーがあるじゃないですか、という声が聞こえてきそうです。

動物セラピーは人間が生得的に持っている、人間性の応答性に着目した治療法です。応答は本来は対人関係において最も明確に反応するはずです。つまり人間による行為の代理として用いているに過ぎません。

それに人間不信は人間による解決しか許されないことを指摘すれば十分でしょうか。人間不信によって疲弊した心を慰めることは動物にできるかもしれませんが、人間不信を人間以外が扱うことはナンセンスです。

結論として人間が人間を育てる以外にないのです。そして人間が社会的に育っていくゆりかごがコミュニティだといえそうです。ゆらゆら心地よく揺れるコミュニティを是非考えてみて頂きたい。