通常、地域コミュニティがコミュニティの代表格です。地域コミュニティは役所などの行政機関が公式に管理している場合が多いようです。でもすべてを行政に任せてしまうことはできません。

時代の変化は行政の対応よりずいぶんと速いのです。時代が必要とすること、対応しなければならない課題は変化が速く、しかも継続しながら変化します。

日本の行政制度には住民の要請に応じるために苦労しているのですが、それでも行政の制限が重くのしかかっているかのようです。その制限は悪評高い年度ごとの予算制度だといえます。

前もって、行政機関は予算を計上しなくてはなりません。現在の必要に応じるために来年度以降の予算に組み込まなくてはならないのです。従って対応できるのは来年以降になります。

住民の課題は周辺地域を巻き込んで、同様の問題として表れることが多いのですが、行政は地域単位で独立していることも特徴でしょう。行政は制度ですから地域コミュニティの境界と完全に一致するわけでありません。

あくまでも行政としては必要を地域ごとに判断する必要があるのです。結果として、隣接地域であっても行政区が異なっていれば、協同したり、参考にしたりという判断は上手く機能しないことになります。

つまりコミュニティを地域行政に任せていては生活レベルの細かな必要に対応できないことになるのです。

不特定多数の集団の最大公約数的な共通目的を設定すると誰も責任を持てないことは当たり前なことかもしれません。何かの目的を共有していない集団ですから、その集団の人たちの目的はてんでばらばらなものになってしまいます。

それでも目的を設けなければ、集団は行動できません。しかし、設定された目的は誰か特定の人の利益ではないという無理な状況を作ってしまうことになります。

そのような集団では誰もが自分の利益に関わりないので責任を持たないという判断をします。責任者は必ず他の誰かがやってくれるはずだと考えることは人間の本性に関わる原則の1つです。

そもそも共通目的を達成するために貢献してもメリットがないことは予測することができます。誰かの利益にもならないことを一体誰が喜んでくれるでしょうか。利益を受けることは、集団に所属することの権利に過ぎないはずだからです。

結果として、そのような集団では誰も責任を取らない結果を招きます。誰でも自分の得にならず、誰にも感謝されない仕事はしてくれませんから。

行政機関の場合を考えれば平等公平に利益を還元すると誰の得にもならなくなることが理解できるはずです。

行政は平等がなにより大切な原則です。法の下の平等に基いて、住民に対して平等のサービスを提供することが行政機関の使命だからです。

結果として最大の受益者を排除することが正義になります。これはしかし行政機関の役割ではなく、住民が担うはずです。隣近所の誰かが自分より優遇されていれば黙っている人はいないはずです。

地域住民に平等に還元すると分配は少なくなることは仕方がありませんが、残念です。分配されるサービスは極端に少なくなり、おそらく誰の必要も満たせない程度になるはずです。

そのような状態では誰一人参加意識を持たず受益者になろうとすることは必然でしょう。参加者であれば集団に対して貢献することで評価を受けることになりますが、評価を与えられないことは明らかだからです。

行政機関が提供するコミュニティは誰の得にもならないことはこれで明らかでしょう。他人のコミュニティや与えられるだけのコミュニティに大きな利益は期待できないのです。