活躍する場はありますか?シェルターとしてのコミュニティ

現代に生きる私たちは、家庭で、友人関係で、会社で、社会的にコミュニケーションストレスにさらされています。私たちにシェルター(逃れる場所)はありません。

日常的に批判にさらされる状況がコミュニケーションストレスを社会的ストレスに拡大します。家庭で思うようなコミュニケーションができず不満を生じ、そのまま不満を引きずって会社の日常業務をします。そこでも同じように不満を積み上げています。

このような現象は、私たちが人格として尊敬された経験が不足しているからだ。こう言うと違和感があるでしょうか?しかし、尊敬されていると感じさせる敬意が、一回ごとのコミュニケーションで聞くという態度で表されます。

敬意を感じることは自分の存在意義を感じる大切な要素です。これがなければ、人間として生きる意味すら見失ってしまうでしょう。その結果として若くても認知症になる人が増えているという事態が統計に出てきているように思えます。

どうして敬意を表現して、人の話を聞くことができないのでしょうか。簡単です。人間は恐れや不安の中に置かれていると攻撃性を強めてしまいます。その結果、同意や共感するよりも相手を非難することを選択してしまうのです。

夕食のテーブルを家族と囲んで一日の経験を話しあう状況を考えてみてください。自分が行動した結果、うまく行かなった経験を話すと必ず、家族は行動の問題を指摘するか、性格を問題視するかですよね。

知性がある人はこのような家族の反応を正しく学びます。家族に個人的な考えや意見を話すと非難されるという予測を身につけるのです。

しかし、一歩身を引いて事態を考えなおすべきです。どうして家族は、友人は、あるいは同僚は意見を否定するのか。もちろん、否定から話を始めることが知的であるという学習をどこかでしているのです。その動機には下心があります。自分の意見を聞いて欲しいという衝動です。

相互に信頼関係を構築できる環境が必要です。信頼は相手がなんとかしてくれるという意味ではなく、相手は自分を非難しないという確信です。だれも非難されることを期待して、自分の話をしたくありませんよね。

実は、特に日本人の場合、好意を持たれることが信頼するための必須の要件になっています。好意を持たれていることを確信できれば人は自分を表現します。当然目的はさらなる好意の獲得です。

好意を獲得していれば、好意によって良い方に解釈してもらえることが期待できるからです。この直感は極めて正しいのです。正反対になるのが警察などの取り調べですから想像することができますよね。

好意を持ってもらえてなければ、信頼は獲得できません。そして好意を受けてることが大きなプレッシャーとして私たちにのしかかっています。そしてその目的を達成する方法は、相手に利益を供与すること、という考え方が根強いのです。

コミュニティでも役立つことで参加しようとする人びとがほとんどです。参加する人は自分の行動がコミュニティにとって有益であって自分の行動が効率的であることで評価されるのを知っています。

会社と同じように貢献度に対する報酬として関係が良好になり、信頼を獲得できるということがルールになっています。この考え方はソサエティに対する見方であって、コミュニティにはふさわしくありません。

ここからコミュニティに期待することが見えてきます。まず、コミュニティは人格を受け入れる容器であって欲しいということです。相手の意見を非難しないことを信頼できる関係を基礎にすることが必要です。これが実現できれば、コミュニティはシェルターとして機能し始めます。